アスイロ恋模様

140文字に収まらない感想や妄想の置き場です

重なった二つの未来①

 

     *

 

 時刻は18時56分。新品のデジタル腕時計はコンマ0秒の誤差もないことをアピールするかのように時間を刻んでいる。開演は19時ジャスト、あと数分でステージは幕を開ける。その舞台袖にはギュッとマイクを握り締めるアイドルがいる。観客の興奮交じりの声が事前に録音した彼女の開演前アナウンスで更に熱気を帯びる、そのせいか緊張から彼女の肩は震えている。俺はその小さな右肩に手を置く。多分言葉はいらない。きっと目と目を合わせれば伝わる。あとは思いっきり背中を押してあげればいい。
 数歩
 また数歩と
 まばゆい煌きが照らす世界へ少女が向かおうとした、その時

 

     *

 

「……さん……ューサーさん、大丈夫ですか?プロデューサーさん」
 真っ暗な世界が揺すぶられ霧がかった意識は次第に晴れていく。何度も俺を呼ぶ声。その声の持ち主には心当たりがある。ぼんやりとした頭を起こして重いまぶたを開けると、目の前には想像通りの人物がいた。
「―――すまない白菊。今は何時だ……?」
「19時30分です……プロデューサーさん外でのお仕事から帰ってきた後、机で書類と睨めっこしてるうちに眠っちゃったんです。疲れてるようだったからそのままにしてたんですけど……徐々に苦しそうな声が聞こえてきて……私のせいで不幸な悪夢でも見てたんじゃないかと思うと起こさなきゃって。その、すみません……」
 そうか、あれは夢だったのか…………どうしてこのタイミングであの夢を。
「って、何で白菊が謝るんだ?前にも言ったけど考えすぎだ。俺なら大丈夫だから」
「そう……ですか。なら、良かったです……」
 今にも折れそうな八の字に曲がった薄い眉毛の下で自信なさ気に微笑む少女の姿から、「アイドル」という言葉を連想できる人間は多くないだろう。しかし、彼女は俺が勤めているアイドルプロダクション『一二三プロ』に在籍している正真正銘のアイドル、『白菊ほたる』だ。
 とても小規模な事務所のため、ほとんど仕事は回ってこないから営業をこなす毎日。社長いわく「手のない時は端歩を突け」らしい。将棋用語で「序盤の局面で有効な手が思いつかないならば端の歩を突いた方が将来的にプラスになる」という意味合いのようだ。確かに知名度のないアイドルが次の日には大きなステージに立てるなんてことそうそうない、地味ながらも一つずつ仕事を積み重ねることが今の彼女には大事だろう。それはともあれ。
「白菊もこんな時間までお疲れ」
「へ……?」
「週末に開催されるオーディションのために自己PRの練習してたんだよな」
 俺は作業用デスクから身を乗り出して休憩ルームへ目を向ける。長机の上には文字が書かれた紙の束とペンが転がっており、彼女の努力が見て取れた。きっと、たくさん悩みながら取り組んだのだろう。
「はい……その通りです。でも、私なんかにそんな言葉……もったい……ないです。それに、途中でお水こぼしちゃって……読めなくなって半分捨てましたし」
 しょんぼりした口調で彼女は語るが、あの量で半分という事実に驚く。
「それは残念だった。でもオーディションまで時間はあるし焦らずやっていこう。それよりもう遅い時間だし寮まで送っていくよ。もうすぐ4月と言ってもまだまだ寒くて暗いしな」
 弱小事務所のうちだが寮は一応用意してある。寮とは名ばかりの社長が大家をしている、これまた小さなアパートだが。と言っても10代の少女が実家のある鳥取から上京を親に許してもらうための最低限の水準は保たれている。
「ありがとうございます……今すぐ準備しますから、ちょっと待っててくださ……きゃっ!」
 私物をまとめるために飛び出した白菊は何もないところで転んでしまった。急いで傍へ駆け寄り左手を差し出す。
「大丈夫か?」
「す、すみません……また転んじゃいました、この事務所にも慣れてきたはずなのにな……」
 自身の不幸にため息をついて俺の手を頼りに起き上がる白菊の体重はひどく軽く、気を抜けば吐いた息と一緒に空気にとけて消えてしまいそうだった。
「転ぶことなんて誰にだってあるさ。ゆっくりでいいんだ」
「そう言ってもらえると、助かります……」

 数分後、準備ができたのか彼女は出口までやってきた。
「よし。忘れ物はないな?それじゃ帰ろうか」
「はい、お願いします」
 玄関を開けると少し肌寒い空気が頬に触れる。3月下旬。春の足音はいまだ聞こえず、花が芽吹くにはまだ時間がかかりそうだ。

 

-続く-