感想『放課後のプレアデス』~選ばれた可能性と未完成のカケラたちへ~
「さあ、キミ達は何を選ぶ?」
2019年11月17日現在、『放課後のプレアデス』全12話を視聴し終えた。胸を張って言えることでもないが初視聴だった。これほどリアルタイムで追いたかったと思わされるアニメには初めて出会ったかもしれない。
ではなぜ放送から4年経った今視聴するに至ったのか。それはツイッターのTLでオタク達が2010年から2019年までの10年間のベストアニメを1本ずつ挙げる中で2015年を『放課後のプレアデス』が受賞しているケースが多くて興味を持ったからだ。
また、以前『はいふり』を勧めたら一気見してくれたオタクから物々交換のように「放課後のプレアデスは見ておけよ」と念を押されたことも要因の一つだ。
そうして全12話を走りきった結果、初視聴したこの興奮を忘れないように自分なりにまとめようと思い筆を取った。
各キャラクターへの思いは尽きないがここではストーリーの沿革をなぞる程度にしておく。もし未視聴の人がいて興味を持ってくれたならぜひ視聴して欲しい。これはあなたの物語でもあるのだから。
あらすじ
星が大好きな中学生、すばるはある日の放課後、宇宙からやって来たプレアデス星人と遭遇した。地球の惑星軌道上で遭難した宇宙移民船を直すため、プレアデス星人は地球人の中からエンジンのカケラをあつめる協力者を召還したという。ところが集まったのは1人のはずが何故か5人!「魔法使い」に任命された5人の少女たちはそれぞれ何かが足りていなくて、力を合わせようにもいつもちぐはぐで失敗ばかり。おまけに謎の少年まで現れて、こんなことでエンジンのカケラを回収して宇宙船を直すことはできるのか??かわいそうな宇宙人を助けようと、未熟さゆえの無限の可能性の力を武器に、友情を培いつつ、カケラあつめに飛びまわるすばるたち5人。宇宙と時を翔る、希望の物語。
放課後のプレアデスdアニメストア~あらすじ~
「何者でもない彼女たち」と「何者かになっていた私」
無限大の可能性、と聞いて何を思うだろうか。先日までの私なら「無限大の可能性なんて現実を直視してない単なる綺麗事だろ」と鼻で笑っただろう。
高校受験ではキミ達には無限の可能性があるから今努力しなさいと言われ、大学受験ではキミ達の無限の可能性は志望校選びで現実になると鼓舞され、入学式ではキミ達には無限の可能性が待っていると決まり文句のように誰とも知らない”お偉いさん”から説かれる。
そういった無限の可能性を疑いもせずに楽観的に或いは盲目的に信じた結果、人並みの就職活動を行い人並みの社会人生活を送るレールに気付いたら乗っていて、無限の可能性なんてこれっぽちもない道端に転がってるようなごくありふれた可能性を選んだ「何者か」の型にはまっていた。
『放課後のプレアデス』に登場する中学生5人組(すばる、あおい、ひかる、いつき、ななこ)も無限大の可能性を秘めていた。正確には「何者でもないがゆえに何者にもなれる可能性の元」であった。
プレアデス星人の宇宙船を直すうえで必要なエンジンのカケラを集めることのできる魔法使いになれるのは彼女たちのように「何者でもない何か」だけだ。
しかし「何者にもなれる」存在というのは裏を返せば「何者かになるまで何者でもない不安定な自分」のまま生きることとも言える。
これは非常に繊細な存在で、四方八方どこから強風が吹くかも分からない橋の上を命綱なしで渡るような生活であり、大雨の下で灯したロウソクを消さないよう慎重に宛てのない目的地を目指すような旅である。
そして13歳という幼い彼女たちは何度も迷うことになる。あるものは優しすぎるがゆえに、あるものは過去の自責に縛られるがゆえに、あるものは自分を守るために独りであると思い込むがゆえに、あるものたちは答えをもたないと思い込むがゆえに。
そしていつしか彼女たちは居心地の良さから魔法使いで居続けることを心のどこかで願っていて、「変わるため」に魔法使いになったはずなのに「変わらないこと」を夢想していた。
放課後の特別にずっと守られてたいけど
曖昧の針が刻(トキ)を告げる
エンディングテーマ「ここから、かなたから」
しかし変わりたくないと願うのは自然なことでそれが自分にとって心地よい場所であるなら尚更だと私は思う。
振り返ってみれば中学生のころは将来の不安なんて考える暇もなくて、毎日学校と自宅を行き来して放課後は部活動や友達と遊ぶことだけで精一杯。
今にして思うと「放課後」は誰にでも訪れる期間限定の時間であり、どれだけお金を持っていて権力がある人間でも一度過ぎてしまえばそこに戻ることは不可能な空間であった。
言葉にしてみれば当たり前のことではあるが、放課後の中にいる少年少女たちがその特別に気付くのはずっと後のことだろう。
そして作品タイトルに「放課後」が入っているのはその時間が期間限定で特別な存在であることを示唆するためなのかもしれない。
ならば私たちは何を思うだろうか。「放課後」にのみ現れる彼女たちを目の前にして。若さと無限の可能性、有限性の狭間で瞬くプレアデス星団の輝きを怖がらずに見つめられるだろうか。「何者かである私たち」が「何者でもない彼女たち」を。
「可能性の選択」と「魔法(呪い)」
第6話で「生きることは何かを選ぶこと」だとプレアデス星人は5人組に語った。そして自身はあらゆる可能性(それが0%以上なら)から1つを選び取る技術を持ちながらも、この宇宙で自分たちが生き残る可能性は0%のため「選ばないこと」で生存問題を先延ばしする方法をとった過去も語った。
ここで関連してくるので本物語のキーパーソンとして登場する「みなと」という少年だ。彼は5人組とは正反対の位置におり「可能性の選択すら許されなかった存在」としてすばるの前に現れ、時にはアドバイスをして時には問いを投げかける。
ではプレアデス星人が言うように生きることが選ぶことならば、選ぶ機会すら与えられなかったみなとは死んでいることと同義なのだろうか。この問いはイエスでもありノーでもある。
ただ死を待つだけのこの世界では可能性の選択権を持たない現実を知り、今までの思い出すべてをまぼろしと認識した少年にとってその人生は生きているとは言えないかもしれない。今の自分を過去を否定して別の世界(可能性)へ行けるなら魔法が呪いに変わってでもそのカケラを集めようとするだろう。
反対にそんな少年のことを忘れたくないと抗う少女もいる。扉を開けて少年の元へ通い続けた少女は、この世界がどんなに残酷なものでも出会ったことに間違いなんてないと叫ぶ。それは少年にとって先の見えない黒で塗りつぶされた人生を照らす一つの光であり、生に希望を見出す魔法(呪い)そのものだった。
「希望が僕を苦しめるんだ。何一つ希望がなければ、こんな辛さを感じることもなかったかもしれない。」
きっとこのアニメを視聴している人たちの大部分は既にある可能性を選択したあとであり、「何者か」であることが確定している者たちだろう。例え本人が自覚していなくてもそれは「何者でもない彼女たち」を見守っていく上で次第に浮き彫りにされていく。
かつて私たちにも彼女たちのように何者にもなれる可能性を秘めた存在であったことに気付かされたとき。少年のようにあなたは今の自分を否定して別の可能性を、過去を、悔むだろうか。それとも少女のように例え残酷であったとしても今の自分を、環境を、肯定することができるだろうか。
『放課後のプレアデス』はその「選択」を私たち視聴者にも問うてくる。
「わたし」が「わたし」になる物語
「可能性」と「変化」、「変わること」と「変わらないこと」、「選ばれた可能性」と「選ばれなかった可能性」。これらは『放課後のプレアデス』が全12話をかけて伝えようとしたテーマであり、手放すことのなかった煌きである。1話1話すべてが欠けることの許されない星であり、彼女たちが自分たちの意志で踏み出した軌跡だ。
「わたしはいくよ、地球を立つとき決めたんだ。カケラを手に入れて必ず帰るって、すばるが信じて待ってくれているから」
「わたしもいく。もう決めたことだから」
「この宇宙のおかげなんかじゃない。全部私たちが自分の意志と自分の力でやったことだよ」
「それに、今諦めたら私たち変われないもの」
「わたし変わりたいの。今からでも間に合うかな?」
私が忌み嫌っていた「可能性」の5文字は、彼女たち5人*2のおかげで幼い頃に目にしたキラキラの輝きを放つものに戻っていた。
だからきっと大丈夫だ。ここからはじめよう。何者かになってしまった私であっても、選ばれなかった可能性があったことを忘れずに、そのキラキラした結晶を見失わない限り何度でも扉を開けることができると。
彼女たちが太陽系を渡り、銀河を渡り、宇宙に飛び出しブラックホールと対峙して13個のカケラを集めきったように。
彼女たちがあらゆる可能性から何にでもなれる機会を得ながらも今の自分を選んだように。私も胸を張って叫びたい。
「「「「「わたしはわたしになる」」」」」
その時 めばえた衝動に
記憶さえも シンクしてゆく
「ありがとう」何度も叫びたい
未完成なまま それでいい
約束の歌を連れて
わたしよわたしになれ!